「精神は環境に従順である」(少年と少女へのノート)

これだけ読めば、環境次第でコロコロ精神は変わるというようにも読めてしまいます。例えば、小説家だった頃や芸人だった頃は、不道徳なことや性悪なことも奔放に書いたり言ったりして面白いところもあったのに、知事になったらコロッと変わってえらく道徳的でつまらないことを言い出すヤツみたいに。
しかし吉本隆明の初期ノートを通して読めば、こうした言葉はいったん海に潜るように原理的につきつめられた考えがあって、その考えが再び海上に浮かび上がるように生活の中に戻ってきた時に吐かれたものだと分かります。原理的に突き詰めただけの言葉でもなく、生活の実感だけの言葉でもないのが吉本隆明の若い頃からの表現の性格です。
私の解釈ですが、吉本隆明は化学者ですから科学の成果がどんなに自然を越えたように見えようと、それは自然から抽出されたものの組み合わせに過ぎないように、思想とか論理というものも、環境すなわち現実をどんなに越えたように見えようとも、現実から抽出されたものの組み合わせなのだと言い切っているように思います。
それだけ環境=現実というものを、汲み尽くせない大海のようなものと感じているのだと思います。
環境=現実を越えると称する戦後の左翼思想の中で、吉本隆明は彼らのその現実と称するものが、巨大な思想の大家が抽出してくれた認識を丸暗記しているだけのものだということに苛立っていました。たえず汲み尽くせないものから出発しようとする、吉本の全身で考える資質のようなものが、この原理的であり感覚的である言葉を吐かせているのだと考えます。
それはヨダさんの考えすぎじゃないの?と思う方は、一度「初期ノート」の超ド級に緊迫した暗い世界にはまってみてください。