春の嵐だ。窓の内側で何が愉しかつたらう。窓の外で風と雨がつのつてゐる。僕は待たうとした。期待のうちにかけられた運命は素速い速度でふるえてゐる。そして僕は何を不安のなかから追出すことが出来たらうか。僕の望んでゐた通り精神は飛翔をやめてしまつた。僕はじつとしてゐる。(夕ぐれと夜との独白)

こういう文章はなにかの模倣なんだと思いますが、なんの模倣だかわかりません。リルケとかかな。国籍不明ですよねイメージが。ヨーロッパの古い町っぽいところで若者が窓の内側で物思いに沈んでいるみたいな。しかし吉本は佃島出身のこてこての下町っ子。だからこういう無国籍のイメージに憧れるんだと思います。昔の日活の映画みたいなものですよね。小林旭が馬に乗ってギターを背負って現れるみたいな。そんな奴、この日本のどこにいるんだ?っていう。しかし吉本の苦しみは現実を高い抽象の次元で捉えて思考することからやってくるもので、その部分は下町の描写では描けないんだと思います。それは無理ですよ、寅さんが部屋で抽象的な思索に耽っているようなものだから。いきなり階段の下からおばちゃんが「寅〜ごはんできたよ〜降りといで」とか声をかけるような世界でねえ。だから言語によって西欧風の無国籍なイメージのなかにいるようにすれば、「運命が素早い速度でふるえてゐる」というような心象も描ける。立原道造とか芥川龍之介とか堀辰雄とかの文体も同じ理由があるんだと思います。後進国が先進国に憧れておこなう文化的な振る舞いですね。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

今まで解説してきたことをまとめますと、吉本が精神の病、その病のなかの病ともいえる分裂病についてどういう考察をしているかを取り上げたいわけです。そのために吉本が現在の精神の問題を大きくはどう考えていたかを把握したいわけです。現在の社会をどうとらえているか。すると吉本は存在倫理ということを晩年に言っていたことがわかります。この存在倫理は普遍倫理とも言い換えることができるもので、現在の市民社会で流布されている善悪の基準よりもずっと巨大な規模の倫理を指し示す概念です。吉本はどうしてもそれが問題になると言って亡くなっていったわけです。

存在倫理という概念を吉本が提出したのは、阪神淡路大震災とオウムサリン事件が起こった1995年以降です。この存在倫理という概念が考え出された吉本の時代状況への考察と時代的な精神の考察を掘り下げていけば、現在の精神病についての吉本の見解も解説できるはずだと思います。やけに遠回りしているように思われるでしょうし、実際興味にかられて遠回りしているわけですが、やがて的に当たるので気長にお付き合いください。

特にオウムサリン事件に対する吉本の発言が大きな吉本への非難の合唱を引き起こしました。ここで吉本から決定的に離れていった読者やメディアや知人友人たちも多くいたわけです。吉本はうっかり発言したわけではなく、そういう結果を覚悟して発言しているわけです。吉本は時代の節目でそのような腹をくくった発言をする。そして波が引くように吉本から去る人たちがいる。そういう人たちはまだ吉本に関心をもち、その考えを追いかけているような連中を吉本信者などと罵倒します。しかしいずれが正しいかはやがて時代の進展が明らかにするでしょう。

吉本の麻原彰晃に対する見解は、ほかのオウムについて発言をしたマスコミのキャスターや弁護士や学者や評論家や芸能人ともまったく異なっています。それらの人たちより吉本ははるかに麻原彰晃を高く買っています。

「うんと極端なことをいうと、麻原さんはマスコミが否定できるほどちゃちな人ではないと思っています。これは思い過ごしかもしれませんが、僕は現存する仏教系の修行者の中で世界有数の人ではないかというこらい高く評価しています」(吉本隆明「オウムが問いかけるもの」)

ここまで言っている。いわば全マスコミと文化人に喧嘩を売っています。この発言の真贋を問わなければ吉本の解説は成り立ちません。吉本はすべてを賭けてこの発言をしているからです。吉本は麻原に会ったことがあるわけではありません。吉本の麻原への評価は麻原の著作である「生死を超える」にあるのでしょう。「生死を超える」の詳しい評価はあとでやるとして、吉本はこの本を読んで、麻原をちゃちな人ではないという確信を持ったということです。

さらに吉本の麻原への評価は、麻原の信者を惹きつける魅力にあるのだと思います。惹きつけられなければ日常生活を捨てて共同生活をする信者の生活に飛び込むことはないわけでしょうからね。私たちはマスコミが流した麻原の映像から麻原のイメージを作っています。でぶでぶと太ったひげもじゃの男が女性信者にかしづかれている映像とか、例のしょ〜こ〜、しょ〜こ〜という選挙活動の映像とか。これはまともな人間じゃないな、そんな男に従っている連中も洗脳されて頭がおかしくなってるんだろうというように。つまりちゃちな男に洗脳されたちゃちな連中というふうに見下しています。

そのちゃちなオウム真理教団が数々の事件を引き起こした。特にオウムサリン事件は無差別殺人事件だから自分には直接関係ないと思っていた人たちも刺激したわけです。もしかしたら自分が乗っていた地下鉄にこいつらはサリンを撒いたかもしれない!というように。

吉本のオウムサリン事件への見解は「これは人間を殺傷する行為としては、もう最大次元に極端な所まで一挙に飛躍させちゃったことを意味していると思います。これはどんなに誇張しても誇張しきれないほど、やっぱり重要な問題を孕んでいると思います」(吉本隆明「より普遍的な倫理へ」)というものです。吉本を非難したい人たちから見れば、ここに至ってもまだちゃちな麻原を評価するのか!というはらわたの煮えくり返ったような怒りにつながったでしょう。

ここまで述べたように一方に吉本の麻原彰晃の修行者としての評価と、そのしでかしたサリン事件への評価という観点があると同時に、オウム事件をとりまく時代状況に対する本質的な洞察や状況的な洞察があるわけです。その一番原理的なものは、国家というものも宗教の最終的な形態に過ぎないという見解だと思います。この論点は2001年の9.11アメリカ同時テロ事件への吉本の見解の解説でも書きましたが、要するに国家も国法(憲法)を教義とする拡張された宗教だとみなすことのできるものだ、という考察です。そして原則的にいえば宗教は宗教の上に立つことはできないと吉本は述べています。そしてとても重要なことを述べています。

「『国家』という『宗教』が、何はともあれ市民社会の上に立ちたい願望のあげくに一定の共同幻想(規範)を造りあげているように、どんな宗教も市民社会を超越したい欲求と、個々の市民の内面(こころのなか)に規範(戒律)をうち立てたい願望を持っているものだ。『国家』という『宗教』やそれ以外の宗教は、その超越的な部分で、市民社会の規範を超えた部分を必ず形成している。別の言い方をすれば、市民社会の善悪の慣行に違反する可能性をいつでももっているものだ。たとえば市民社会の市民が、誰も生命を失いたいとも思わず、戦争をしたいともかんがえないのに、国法を介して市民を戦争に介入させ、生命を殺害させるような悪をなすことができる」(吉本隆明産経新聞は間違っている})

ここで述べられているのは、国家も宗教も市民社会の規範を超えた規範をうち立てたがっているし、そうした超越的な規範を形成している。国家にとって戦争と戦争を可能にする法的なしくみはその市民社会の規範から超越した規範の典型である、ということです。ここからサリン事件の考察と存在倫理の考察につながっていきます。それは次回で。

風は柔らかになつた。僕の心は険しいままくるまれてゐる。柔らかいもので。(夕ぐれと夜との独白)

ほんとうに晩年のよろよろした爺さんになった吉本の写真で見たんですが、吉本の自宅の書斎で山のような書物に囲まれてお爺さんの吉本がいるんですが、目の前の壁に大きな綺麗な外人女性のポスターが飾られていたんですよ。たぶん吉本が惹きつけられた写真なんでしょうね。柔らかいものでくるまれるという言葉で、その大きな写真とともに書斎にいる晩年の吉本を思い出しました。

自覚における自己写像は任意的である。つまり任意的なものだけが自己形成に関与する。人間の自由とは原理的に(つまり抽象的に)語られる限り、この自己写像の任意性といふことに帰着する。(形而上学ニツイテノNOTE)

これは昔読んでよく分からなかった箇所ですが、今読んでも分からないですね。自己写像っていう概念が分からないわけですよ。人間はたえず心も体も動いていますよね。絶え間なく何らかの活動状態にあるわけで、そのすべてを把握することはできません。絶え間なく活動している自分の状態から取捨選択して自己のイメージを作り上げる。俺ってこんなふうに生きている、という。そういうのを自己写像といっているのかな、と思います。その取捨選択した自己のイメージに意味を与えるのが自覚だと考える。こんなふうに生きている俺はこういう意味をもった人間だ、という。俺はいいやつ、とか俺はずるいやつとか。しかし絶え間なく活動している自分から取捨選択する自己イメージも、その自己イメージに意味づけする自覚も、任意的なものだということです。つまりなんらかの方法をもって自分をイメージ化したり自覚したりするわけではない。適当といえば適当にやっているわけで、あるいは自由にやっているともいえます。だから人間の精神の根底にあるものが、自分が自分であるという自覚だとすると、その自覚は自己写像の任意性という自由さと切り離せない。人間の精神の自由というものは、自分を自分と思う思い方の自由さに支えられている、とそんな感じでしょうか。あなたどう思います?

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

吉本がオウムサリン事件と阪神淡路大震災を題材にして追求したいのは普遍的倫理という概念です。その普遍的倫理とは何かというテーマに関連して、精神の「深さ」という概念が提出されます。そしてその「深さ」の見本というか具体例として、エックハルトというカトリックの中世ドイツの神秘主義者の説教を吉本は示しています。今回はその続きを解説したいと思います。

「深さ」の具体例として吉本があげているのはエックハルト以外では「ヨブ記」の注釈をしているキルケゴール杉本五郎です。杉本五郎は軍人で「大義」という著書があるそうです。わたしは読んだことがありません。これらの人に吉本がなぜ精神の「深さ」を感じるのか。それはエックハルトの説教でいうと、エックハルトは聖書の一節を取り上げて説教をするわけですが、その取り上げる聖書の言葉よりもエックハルトの言葉のほうが「深い」と吉本には感じられるということです。同様に、キルケゴールの注釈の言葉のほうが「ヨブ記」よりも「深い」。また杉本五郎天皇に対する信仰の言葉のほうが、天皇自体よりも「深い」と感じられるということです。

吉本はこうした「深さ」を戦争中の自分自身の戦争死を考えざるをえない状況で感じ取ったようです。20歳で戦争に行って死ななければならないということをどうしたら納得できるか。そこまで追い詰められて、戦争の理由は親兄弟のためとか恋人のためとか、国土のためとか故郷の人びとのためとかいろいろあるけれど、それは相対的な理由に過ぎなかったと吉本は述べています。自分の戦争死と引き換えにするほどの理由にはなりえなかった。そして絶対的なものを吉本は求めます。自分の予定された死と引き換えにできるほどの絶対的なもの、それは天皇という現人神(あらひとがみ)しかなかった。この神聖にして侵すべからざる天皇のためなら自分は死ねるんだと思えた。そういう宗教理念と似たものをもたなければいられなかった、といっています。

この戦争という社会状況から追い詰められて天皇の絶対視に至る精神は、敗戦によっていっきに叩き伏せられます。すると天皇に対しての絶対視も失われることになります。「なんてばかばかしいことを信じていたんだろう」と吉本だけでなく、日本中の多くの人たちが思ったでしょう。しかし信じていたことを疑うことはできないし、それをごまかすこともできない、と吉本は考えます。その自己欺瞞を嫌う精神からオウムに関する鋭い考察が導かれます。吉本は自分の天皇崇拝だった過去からオウム信者の麻原崇拝を類推して、信仰の内部にあるときは一種の絶対観念をもっていて、その絶対観念を充たすもの、絶対観念に耐えるだけの「深さ」のあるものを求めているといっています。それは信仰の対象である天皇や麻原が人格的にどうあろうと人間的にどうあろうと問題ではない。欠点をあげつらえばいくらでもあるし、それは麻原でも天皇でもいくらでもある。そういう人格的な問題とは別次元で麻原や天皇を神だと設定して救済される精神内容というものはある。それは宗教の問題、信と不信の問題だと吉本は述べています。

そうすると麻原の何がオウム信者の絶対観念を充たしたのか、その絶対性を求める渇望に耐ええたのか、ということになりましょう。吉本はこういっています。

「ただ、麻原という人のばあい、内面的に、とくに主たるお弟子さんにたいしてどういう精神作用をどこの境地までもっていかせたとか、有効な手助けをちゃんとしている。体に触ったとか頭に触れたというだけでそれをやったという、それだとおもいます。それだけは残りますね。ぼくはそれが深いとおもいますね」(「宗教の最終のすがた」吉本隆明

つまり信じる側にその時代、その状況によって絶対的なものを求める渇望というものが想定されます。吉本の時代の若者であれば戦争が絶対的に帰依できるものを求めさせたわけです。では今の時代の絶対への渇望とは何でしょうか。

それは「欠如」の問題からではなく出てくる倫理、善悪の基準というものが渇望されていると吉本は考えているとおもいます。世の中が豊かになって餓えるという問題がおおむね解決された。それに伴って「欠如」というものを土台にした倫理性が時代遅れになってきたということです。

ちょっとその問題は置いておいて、ひととおりまとめたいわけですが、信じる側に新たなる時代の渇望があると、その絶対感情の受け皿になるものはもはや左翼ではないということです。左翼、つまりマルクス主義唯物論は、「欠如」があるから力があった。しかし左翼の敵であった資本主義が「欠如」の問題を、少なくとも社会主義の国家よりも解決してしまった状況で、もはや左翼は倫理性の集中点になりえないことになります。

だとすると新しい渇望を充たすものは個我の精神的な「深さ」というものしかありえない。それは宗教が充たすことができるだけです。

その「深さ」というものは新興宗教の教祖のなかにそれぞれなんらかの形であるだとうということを認めなければならないんじゃないでしょうか。なんとか馬鹿にして、詐欺師や色情狂やキチガイということにして見下しておしまいにしたいわけですが、ではなんで多くの人間、若い優秀な人間も信者になっていくのかという問題が解けません。じゃあ信者になっていく連中もついでに馬鹿にして、世間知らずで指示待ち世代でというように見下しておしまいにしたい。しかしそれならなんでこんなに世間が騒いでいるんだ?という疑問になります。天皇が死にそうになった時のように世間が騒いでいる。メディアが取り上げ続けている。それこそがこの事件が衝撃を与えていることの証拠だと吉本は言っています。

中途半端ですが、また次回で。

現実は人為的に(意識的に)、又は必然的に(無意識的に)歪められてゐる。(形而上学ニツイテノNOTE)

これはマルクス主義的な考えから出ている言葉のようですね。現実の歪みというのは資本主義社会の歪みというようなものを指しているのだと思います。吉本が優秀だなと思うのは、制度の歪みを革命で改めようというだけでなく、現実の無意識の歪みというものを考えているところです。それは意識的な制度的な歪みではないんでしょう。もっと人間性の奥から生じているような歪み。人間の宿命のような歪みなんでしょう。いわば永遠の課題のようなものです。

戦後世代の無軌道を批難して、もつともらしい渋面をつくつてゐる大人たち。君たちはあの無軌道が、仮令へ無意識な行為であつても、一つの自衛の本能(精神の破局に対する)から発してゐることを、よもや知らぬふりをすることは出来まい。何故、自衛せねばならないか。それは全ての思考と行為とが、ネガテイヴの内で行はれてゐるからだ。ポジテイヴを放棄したものにとつてすべてはネガテイヴだ。(風の章)

戦争に負けるまでは、日本人は軍国主義のもたらす情報やイデオロギーによってであれ、ポジティブではあったわけでしょう。社会に対して希望をもっていたわけです。この戦争に勝ちさえすれば、というような希望。みんなが社会を向いている、困難ではあっても、そこにはまだ希望がある気がするうちは。希望があれば、人々は社会に目を向け、政治に関心をもち、巨大なエネルギーを生み出します。熱狂する人々の歓声、巨大な集会、激論、ヒーローの登場。

しかしその希望が裏切られたとわかったら、潮が引くように熱狂は引いていきます。そして絶望が人々をおおい、ネガティブな精神になっていく。もう社会の動きを見るのも嫌であるし、政治なんか信じないし、いっさいの希望的な言辞を憎むようになります。

それでも若くて肉体のエネルギーは抑えきれないとすれば、そのはけ口は政治と真逆にあるもの、セックスとか暴力とかデカダンス、飲む打つ買うみたいなところに向かいます。それを戦後世代の無軌道と言っているのだと思います。いっぽうで若く無軌道な連中の側の言い分からすれば、社会に対して目を向けてポジティブに希望を抱いて何かを成し遂げたいと情熱をふくらませる年齢になったのに、この社会には絶望しかないじゃないか。そんな社会にしたのは前世代のおっさん連中ではないか。あんたたちがだらしないから、卑怯で騙されやすいから、こんな希望の見当たらない社会になり果てたんじゃないか。そんな社会で絶望で心身を凍えさせたくないから無軌道に暴れるしかない俺たちを「もっともらしい渋面をつくっている大人たち」。あんたたちは暴れるのをやめてどうしろというのか。正しい道を歩めと?その正しい道とやらが希望に続いているといまだに信じているのはあんたたちだけだよ、というような感じでしょう。これは何度も繰り返される世代間の葛藤です。

社会的に非難されている者たちの内面を捉える。そしてそこに時代の問題を視る。そういう生涯を通じてひん曲がらなかった吉本の状況をとらえる方法の萌芽がこのノートにあるといえるでしょう。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

オウムサリン事件というのはオウムの信者が地下鉄にサリンを撒いて、赤の他人を殺傷したわけです。信仰の教義や内容の問題を超えて現実化したところに衝撃があります。このオウムに直接に敵対する弁護士とか警察ではなく、無関係な市民を殺傷したということをどう捉えるか。すべての思想が試される大きな社会的な問題が発生したといえます。

当時のオウムサリン事件に対する評価は、ひとつはオウムの宗教性自体を否定するものです。あれは宗教を名乗っているが、本当は宗教ではなくテロ組織の偽装だ、とか、金儲けだけが動機の集団だとか、キチガイの教祖にだまされた世間知らずの若者が犯してしまった犯行だ、とか。あるいはオウムの宗教性は認めても、ヒューマニズムの観点から間違った宗教、ダメな宗教と非難するものです。あるいはオウムの宗教性にある鋭さや深さを認めても、その教義を現実化して人を殺傷したことは決して許されるものではなく、その点からオウムの宗教性を批判するといったものです。あとは人を殺傷した奴らに一切の理解を示す必要はない、さっさと死刑にしろ!という感情的な反応です。

1995年に起こったこの事件とその後の反響という、当時はジャーナリズムがそれ一色に染まったような騒ぎを覚えている方は多いでしょう。オウムを非難する言論一色だったと思います。誰もが麻原とオウムを非難することで、自分の正しさを確認した。

その渦のなかで、吉本だけが誰とも異なる見解を示しました。

吉本は浄土宗を除くすべての仏教は無差別殺人を正当化する論理を作りうるものだ、という衝撃的な発言をしました。では仏教以外の宗教はどうかということは語られていませんが、吉本は仏教だけでなく宗教一般を考察したうえで語っていると思います。

吉本はさらに衝撃的な見解を述べています。

「(前略)つまり麻原の極悪非道と宗教的な到達点と合わないじゃないかと言うけど、それも精神的な形式と精神的な内容と、両面にわたる解釈からいけばすこしも矛盾じゃないとおもいます。

 この境地でなければこれだけの「造悪」はできないはずだという評価になるとおもっているわけです。麻原のやった「造悪」と、この人のもっているヨーガの到達した境地と、パラレルだといいますがおなじだとおもいます。両方を合わせてこの人の信仰内容を解釈しないとだめじゃないかなと、ぼくはおもっています」(吉本隆明「宗教の最終のすがた」)

ここでいう造悪とはサリンによる殺傷ですから、吉本はサリンによる殺傷と麻原のヨーガの到達した「境地」とは切り離せないと言っているわけです。信仰の内容は高度かもしれないけれど、それを現実化したら他人を殺傷するような宗教(仏教)は認められない、という周囲の論議を否定して、現実化したら人を殺傷する、それが宗教(仏教)だと言っていることになります。

吉本は人を殺傷することはしかたがないとか、認められることだと言っているわけではありません。しかしこうした吉本の言論を断片的に知って、感情的に吉本に敵意を抱く人も多くいたでしょう。おまえはあんな酷いことをした麻原やオウムの宗教性を認めようと言ってるんだな!人を殺す境地ってどんな境地なんだよ!というように。

吉本はオウムサリン事件の問題を、吉本の思想のすべてをあげて取り組むべき本質論の土俵にもっていきたいわけです。そうしなければオウムサリン事件を解くことはできないと確信しています。そして解くことができなければ、時代に耐ええない言論をいくら繰り返しても、また同じ事件や問題が噴出してくるだけだ考えています。吉本の洞察によれば、麻原とオウムの生やしている根があるとすると、その根は深い。キチガイのオヤジと世間知らずのインテリ小僧たちが、背後から何者かに操られてしでかしたというような掬い方では、けして掬いきれない深さをもっている。この問題を根っこから根こそぎ掬いとり、本当の意味でけりをつけるには、宗教とは、仏教とは何かという本質論から掬い取らなければならないと吉本は考えたということです。そして宗教とは何かという問題は、吉本が生涯にわたって考察し続け幾多の論考を作り出した吉本思想の根幹にある領域の問題です。

ここで吉本が宗教の本質をどう考えてきたかという解説をしなくてはならないわけですが、まあ簡単にできることではありません。しかし精神病というものへの道筋をつけるためにも、この解説を避けるわけにはいきません。とりあえず「宗教の最終のすがた」という本のなかから「深さ」という概念を解説してみます。これは宗教の本質と関わる概念として述べられています。

吉本は「深さ」、それは精神の「深さ」ということですが、この概念を、これは仏教ではなくキリスト教ですが、マイスター・エックハルトというドイツ中世の神秘主義者の言葉から説明しています。エックハイトといっても誰も知らないような人ですから、吉本が「深さ」を感じたという「エックハルト説教集」から引用してみます。

「私がそこに見つけたのは、純粋な離脱はあらゆる徳を凌ぐということに他ならなかった。なぜならば、他のすべての徳が被造物に対して何らかの結びつきをもっているのに対して、離脱はあらゆる被造物から解き放されているからである」(エックハルト

まずはここまでで、どうですか?分かりますか、なに言ってんのか。わからないと思います。この「離脱」という特異な概念が分かりづらいからです。わたしもよくわからないわけですが、たぶんこの「離脱」というのは親鸞の「絶対他力」という概念に似ているように思います。そういう意味では仏教になじんだアジア人である私たちは理解しやすいかもしれません。また前に解説したシモーヌ・ヴェイユの独自の神学にもたいへん似たものがあると思います。「離脱」というのは自分を「無」にするというような意味でしょう。「被造物」というのは神が作った物という意味で、人間も含む森羅万象が神の創った物ですから、「離脱」はそれら森羅万象から自分を切り離した状態です。そんな特異な状態は、自分を意識的に無にしたような状態、意識を空白にした状態といえましょう。

「教師たちは、聖パウロがなしたように、愛を高く称えている。聖パウロは言う、「どんな行ないをわたしが為そうとも、愛がなければ無に等しい」(コリントの信徒への手紙)と。しかしわたしは、すべての愛にも増して離脱を称える。その理由の第一は、愛における最善のことが、神を愛するよう愛がわたしに強いることであるのに対して、離脱はわたしを愛するように神に強いるからである。わたしがわたし自身を強いて神へと到らせることよりも、わたしが神を強いてわたしに来たらせることの方が何倍もすばらしいことである。その理由は、わたしの側から神へと合一するよりは、神の側からの方がより強くわたしと結びつき、よりいっそうわたしと合一することができるからである。

離脱が神を強いてわたしに来たらせるということをわたしは次のことで証明する。すなわち、どんなものも、その本性にかなった固有の場とは一性であり純粋性である。この一性と純粋性とはまさに離脱に由来するからである。だからこそ神は離脱した心にみずからをどうしても与えずにはいられないのである」(「エックハルト説教集」岩波文庫

言っていることがよく分からないとしても、なんかここには通常の神とわたしとの信仰の関係からは、たいへん型破りなことが言われていることはわかります。あとはまた次回で。

不安とは、ああそれは僕にとつて何処か精神の一箇処に集まつてゐる血液の鬱積のやうだ。(風の章)

不安というのは、それ以上考えが進まない、考える材料がない、考えること自体が苦痛で避けている、考えくたびれているというような部分から発してくる危険の信号のようなものじゃないでしょうか。そこが問題なのはわかっている。でももう解決のめどがない、そんな袋小路が不安の湧いてくる箇所だと思います。



おまけ

ありません。

青春は例外なく不潔である。人は自らの悲しみを純化するに時間をかけねばならない。(原理の照明)

不潔というのはお風呂に入らないというようなことではなく、昔風の言い方ですが自分の内面を誇張したり美化したり劇化したりしがちだというようなことですね。青年がある経験をしてある感情、たとえば悲しみを抱いたとしても、それを表現するのに大げさに嘆いてみたり、逆に知らんふりをしてみたり、余計な観念をくっつけてみたりするというようなことでしょう。要するに青臭くてめんどくさい奴をイメージすればいいんじゃないでしょうか。だけどもそこには純粋素朴な悲しみというものが秘められているわけです。そのリアルな悲しみが照れくさかったり、カッコ悪いと思ったり、自分ひとりだけが世界の中で悲しみを感じているんだと思いこんでいたり、悲しみなんて弱さだと嫌悪してみたり、いろいろな自意識のドタバタを演じている状態を青春と呼んでいるんだと思います。それは時間が洗い流して純化してくれた本来の身の丈の悲しさからくらべれば余計なものがいっぱい付いた「不潔」な内面だということになります。

そんなところで吉本の分裂病理解の解説に移らせていただきます。

1995年に阪神淡路大震災オウム真理教地下鉄サリン事件が同時に起きました。吉本はその時までに、現在の資本主義社会が消費資本主義と呼ぶべき新しい段階に入ったという認識を手に入れていました。消費資本主義というのは所得、個人所得であっても法人所得であっても、所得の50%以上が消費に使われる社会ということを意味します。吉本は消費資本主義に入った段階ということを大変な時代の転換だとみなしています。ここが大きな時代の変わり目で、戦争や革命という目に見える変化ではなくいつのまにか世の中が変わっていたという変化なので捉えにくいわけですが、吉本は産業経済学を用いれば、その転換が明瞭にわかると述べています。

消費資本主義という未知の段階にいつのまにか入り込んだ社会は、その水面下にドロドロした葛藤を潜ませています。それは社会がいつのまにか大きく変わってしまったために、それまで通用していた社会観や倫理観がなんとなくもう通用しなくなっています。しかしそれに代わる新たな認識は登場していません。あるいは登場し始めた新しい認識があっても、まだ社会的な評価を受けていないので「変わった考え」としかみなされません。そういうどう考えたらいいのかわからない、あるいはこれまでの考え方で通そうと思っても通らないストレスが社会の水面下に蓄積されているということです。

その葛藤、ストレスというドロドロしたものがいっきに噴出した感じがするのが阪神大震災サリン事件だったと吉本は述べています。大震災は天災だからストレスが噴き出たというのはおかしいですが、この大都市の日常を突如破壊して多くの死傷者を出した大天災というものを倫理的にどう考えたらいいか、ということとこれからどのように復興を考えていったら新しい社会に適応した都市になるかという課題が、消費資本主義への転換期の問題として登場したということになりましょう。

吉本は10年分の事件がいっきに起こったようだと言っています。だから吉本にとって、阪神大震災サリン事件を論じることは、消費資本主義段階に突入した社会がどのような文化的な変化を起こしていくかを読み解くことです。また吉本は消費資本主義段階を資本主義の末期の姿としてとらえていて、もはや資本主義とも呼べない得体のしれない社会だと考えています。それは資本主義の老熟、末期であるとともに、その向こうにやってくる新しい社会の予感を含んでいる社会段階であるとも考えていると思います。資本主義の水平線の向こうから姿をあらわしかけている新しい社会や新しい文化の影のようなもの、それをここでつかめるだけはつかんでおかないと、それはただ今までの社会観や倫理観で新しさの萌芽を埋めてしまったということにしかならない。それで済むわけではなく、時代は否が応でも進んでいくわけだから、時代の転換は同じような課題や事件をこれから何度でも引き起こしていくだろう。今ちゃんと考えを公表しておかないと、間に合わなくなる、後手後手にまわって、ただ時代の転換に流されてしまって、それに対して思想的なあるいは実践的な対処ができなくなると吉本は考えていると思います。

吉本は不思議な人です。吉本は政府の要人でもないし、国の研究機関の研究者でもない、政党の指導者でもない。ただの民間の文筆業者、物書きです。そんな庶民が自分がやらなければこの社会は新しい兆候に対して対応ができなくなると本気で考え、本気で発言しています。しかし吉本は思想の浸透力というものを信じていますし、100万人がある方向に行くのを望見しても自分が納得しないなら一人別の方向へ歩むという思想の公言の自由を確保するために、権力にもあらゆる組織にも属さない一庶民でいるのだと思います。しかも本当に世間の善悪の基準に逆らって物を言えば、その庶民社会からも孤立し、石をもって追われる羽目になります。サリン事件への発言でも、原発についての発言でも、これまでに何度も吉本は自分がそのなかに埋もれたいと願っている庶民社会から石を投げられてきました。

さて吉本がサリン事件について行った発言を解説して、吉本の真意というものを追求してみたいと思います。「宗教の最終のすがた」という著書(インタビュー)のなかで吉本はもの凄いことを言っています。これが言論的に袋叩きにあった言説の核心だと思いますし、他のどんな文筆業者も学者も宗教家も言う可能性のない特別の言説です。

「もっとも極端なケースを想定すると、たとえば裁判の場面で、麻原彰晃がこんな発言をしたらどうなるか。“よろしい、刑には服そう。しかし、たとえ法律の次元でなんと言われようと、われわれの宗教的な世界観というのはこういうものである。そこでかくかくしかじかの理念にもとづけば、こういうことは一見悪にみえてもじつは悪ではない。救済のひとつのかたちなのだ、云々。”もし、公の場で揺るぎない確信をもってそれが語られたなら、つまりそれだけの幅が彼にあったとするなら、あの人はキリストになってしまうんですよ。つまり「新約聖書」の説話パターンとおなじ展開になってしまうんです」

「いや、麻原がもしちゃんとした人だったら、やっぱりどこかで言うとおもうんです。つまり、市民社会の〈善悪〉の次元でなにか言ってもらったら困ると。それにたいしてじぶんは服する。死んだっていい。だが、おれたちの思想はそうじゃないんだと。一見、無差別殺人にみえるけど、これはじぶんたちが大きな善に至るひとつの過程としてやむをえずそうなったんだみたいなことを言ったら、そうとうすごいとおもいますけどね。ただ、ぼくらはそう言ってくれなんておもいませんが。そうやったら、なんらかの意味でキリストとおなじように生き残りますよ。つまり復活しますね。そこまでやりきれるか、そうじゃないかという分かれ目じゃないでしょうか」(吉本隆明「宗教の最終のすがた」

これはもの凄い公的な発言であると思います。今これを読んで石を投げたくなった人もいると思います。サリン事件は死んだ人も怪我をした人も後遺症に苦しんでいる被害者が大勢いる。そのなかで麻原がキリストになる可能性があるだと?というわけでしょう。当時も多くの非難が寄せられたと思いますし、これをきっかけに吉本との交際を絶った文化人も幾人もいました。

だからこの言葉は吉本思想をどう捉えるかの分岐点になるものです。キリシタンの踏み絵みたいなもので、この発言を泥足で踏みつけることができるなら許されるけど、踏むことをためらえば同じように非難されるか、あるいは吉本の言うことならなんでも信じる吉本信者みたいなことを言われるわけです。しかし吉本ほどの信頼すべき業績のある思想家の発現にはその真意を探求するべきだと私は思います。だから踏み絵を踏まずに考えることにします。

さらに吉本は、先ほどの発言がキリスト教徒に衝撃を与えたとすると、今度は仏教徒に衝撃を与えるだろうもの凄い発言を行っています。

「極端なことをいえば、麻原彰晃のやったことをすべて否定しようとするなら、日本の仏教のなかで存在を許されるのは、浄土教、つまり法然親鸞系統の教義しかないことになります。それ以外の坊さんたちが依って立つ教義は、みんなオウム真理教同様、無差別殺戮を正当化するために論理を生み出せるんです。それをはっきり批判したのは、法然親鸞だけだといっていいです」(吉本隆明「宗教の最終のすがた」)

浄土宗以外、たとえば禅宗でも日蓮宗でも真言宗でも新興宗教でも、その教義はみんな無差別殺戮を正当化するために論理を生み出せる、と言っています。震え上がるようなもの凄い言論ですね。こんなことを言ったのは吉本だけです。

なぜ無差別殺戮を正当化できるかというと、吉本は仏教と死との関係の特殊さを指摘します。仏教徒にとって死は問題にならないと吉本は言います。それどころか仏教の修行者たちは、ヨーガや意識の集中によって幻覚を創出し、見仏の体験を得たり、死や死後の世界のイメージを体現しようと努力してきました。空海最澄もそういうことをやったと吉本は述べています。

「中世の宗教家たちもさかんに死のイメージを美化して、断食したり厳しい修行に身を投じたりして、どんどん浄土のほうに突入していこうとしました。人間の死をなんともおもわない、むしろそこに親しみを感じて引きよせられていくという傾きは、仏教の歴史のなかにいくらでも見いだせるのです。麻原彰晃はそういう仏教のもつ危険さを、白日のもとに明瞭に晒してしまった。現代の仏教家はこれにたいして、きっちりと反論したり、弁明したりしなければウソだと思いますね。

法然親鸞が画期的だったのは、仏教的な修行によって得られる死のイメージを幻覚にすぎないものとして退け、戒律や出家の概念も解体し、在家の身分で、ただ一心に念仏をとなえれば浄土にいける、善行や修行はむしろ往生の妨げになる、ということを説いた点でした。この考えをつきつめていった親鸞は『善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや』、善人が浄土に行けるのだから、悪人はなおさらいけるんだという『悪人正機説』に到達していきます。(吉本隆明「宗教の最終のすがた」)

これらのもの凄い発言には、吉本の宗教についての膨大な考察のすべてが凝縮しているといえます。吉本は間違いなく思想的な生命を賭けて、こうした発言を非難と孤立を覚悟して行ったと思います。こうした言説の真意を解説して、時代の大いなる転換という問題に踏み込んでみたいと思います。そのなかに精神病の理解の変化という課題もあるはずです。